太秦(うずまさ)の由来

読みにくい地名てありますよね。この難読地名 京都にもいくつかあります。その難読の代表格が
京都市下京区四条大宮駅から右京区の嵐山駅までを結ぶ京福電気鉄道、通称“嵐電”沿線にある。
太秦」を(うずまさ)と呼ぶ地名があります。


名前の由来は 5世紀古墳時代雄略天皇に税として、帰化人の豪族秦氏「秦酒君(はたのさけのきみ)」が絹を「うず高く積んだ」ことから、朝廷より「禹豆満佐=うずまさ」の姓を与えられ、それに秦氏の拠点(太)という意味で「太秦」の漢字を当てたなどと言われています。

 そこで、嵐電太秦広隆寺駅”で下車して、太秦近辺を散策してみました。
広隆寺は宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山(はちおかさん)と称し、蜂岡寺、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺など別称がある。 帰化人系の氏族である秦氏の氏寺である。国宝の弥勒菩薩の一方の「宝冠弥勒」は日本の古代の仏像といては他に例がない“アカマツ”材で、作風は朝鮮半島新羅風は強いもののようです。


太秦寺山門前から東の通りを東映太秦映画村に進む途中に「大酒神社」があります。

この神社は広隆寺伽藍神として桂宮院に祀られてましたが、明治のはじめの神仏分離令によって現在地に移建されたそうです。毎年10月12日の夜に、広隆寺の境内で執り行われる“太秦牛祭”は、この神社の祭である。京都三大奇祭の一つに数えられ、京都市登録無形民俗文化財になっています。


この神社から東映太秦映画村に北上しないで、そのまま東に進むと 向かって右に鎮守の森が見えてきます。 


この森が「木島坐天照御霊神社」通称(蚕の社)です。 この神社の由緒に「三柱鳥居」につてこう書いてあります。 “全国唯一の鳥居である。 鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組石は本殿ご祭神の神座であり宇宙の中心を表し四方より拝することが出来るよう建立されている。 創立年月は不詳であるが現在の鳥居は享保年間(約三百年前)に修復されたものである。

 一説には景教キリスト教の一派ネストル教 約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている”とある。 この一説の景教の遺物ではないか? から始まるシルクロードを東西に渡る 悠久の歴史の芳醇な香りにグラスを傾けてみることにします。

 ネストル教ですがネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。325年のキリスト教会最初の公会議ニカイア公会議で三位一体説が正統とされたため、それに異を唱えるネストリウス派は431年のエフェソス公会議において異端認定され排斥された。これにより、ネストリウス派ペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。 教義は、キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考える。それは、救世主(キリスト)の神格はイエス福音書に宿り、人格は消え去った肉に宿っていたことを意味する。人性においてキリストを生んだ「マリア」が神の母(テオトコス Θεοτοκος)であることを否定する。(Wikipedia ネストリウス派より)
マリアを神の母と認めなかったことが排斥された要因の一つの様ですね。
 景教空海が開いた真言宗と関連性があるという学者もおられます。
長安の西には、大秦寺というキリスト教寺院があった。ほぼ同時代の京都でも、西側に太秦という地名ができている。そして、京都は長安を手本としながら、いとなまれた。「太」と「大」のちがいは、問題とするにあたらない。どちらも同じ表記であったと、みなしうる。この一致から、京都太秦広隆寺も、キリスト教の寺院であったと考える人がいる。地名の共通性だけが、その根拠となっているわけではない。この説をあかしだてているとされる話は、ほかにもある。
広隆寺の東どなりに、大酒(おおさけ)神社という神社がある。今は「大酒」と書くが、もともとは「大辟」としるしていた。この「辟」に門がまえをそえれば、「闢」という字になる。「大闢」神社という名前が、うかんでくる。ごぞんじだろうか。漢籍に出てくる「大闢」は、ユダヤダビデをさししめす。大酒神社も、もとはダビデ神殿だったのかもしれない。”(朝日新聞 登録193「太秦」めぐる超古代史より)
この三柱鳥居は元礼(もとただす)の池という水の中に立っているのだが、(今は湧水がまわりの宅地開発の影響とかで出なくなり枯れた状態です)三角形の中心に石積みがしてあり、そこに幣帛(へいはく)が1本建てられている。ここに祀られている神の名は天之御中主神。そう、古事記にはたくさんの神が登場しますが、その一番はじめに現れる神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ですあり。唯一神と言っていいのかもしれません。

またこんな説も浮かび上がる。
広隆寺が建立された頃と時を同じく、唐においてはネストリウス派キリスト教である景教の布教が活発になっていました。そして3世紀から7世紀にかけて西アジアを支配したササン朝ペルシャ帝国により育まれてきた景教を638年、唐は公認したのです。その寺院は当初、ペルシャに由来する宗教という意味のヘブライ語 (pharsi、ファシィ)、もしくはペルシャ語の「ファルシィ」の音訳として、「波斯」という漢字が用いられ、中国では「波斯寺」(はしでら)、もしくは「波斯経寺」と名付けられました。その例にもれず、日本では同様に景教のルーツを持つ広隆寺も、「波斯の宗教」、「ペルシャの経」という意味の「波斯経寺」と命名されたのです。そしてこの言葉を語源として広隆寺の元来の名である「蜂岡寺」が、その当て字として生まれました。「経」は「宗教の聖典」を意味しますが、ヘブライ語では (khok、ホック/オク)という「律法」を意味する言葉で言い表します。すると「波斯経」の読みは「ファシオク」なり、その発音に当てた漢字が「蜂岡」です。そして日本語では「波斯経寺」が、「蜂岡(はちおか)寺」と呼ばれるようになったのです。


日本書紀新撰姓氏録によると、秦酒公が朝廷に税を献上する際に、絹を「うず高く積み上げた」ことに感動した天皇が、「兔豆母利麻佐(うつもりまさ)」という姓を秦氏に与えたのがその由来であり、また、続日本紀には、聖武天皇の時代、恭仁京を造営する際に築いた大宮垣の褒美として「太秦」の称号が与えられたと記載されています。
実は「兔豆母利麻佐」という言葉は、「ウツァ・モリッ・マシャ」というヘブライ語に漢字を当てたものであり、その言葉の意味は「処刑された救い主」だったのです。まず (hutsa、フゥツァ)が「(命を)取られる」という意味の言葉であることに注目です。その発音は「ウツァ」とも聞こえ (hutsale-horeg、ウツァ・レホレグ)「処刑される」の意を持つ熟語にも見られます。次に (morish、モリッ)ですが、この言葉は「遺贈者」、「遺言により財産を他人に与える人」を意味します。また (mashiakh、マシァ)は「油注がれた者」、すなわち「メシア」、「救い主」を意味する言葉です。「兔豆母利麻佐」(ウツァモリッマシァ)は「自らの財産を捧げて処刑されたメシア」、つまり「自らの命を捨てて処刑された救い主」という意味になります。その略称が「ウツァ・マシァ」であり、このヘブライ語が日本語では、「ウズマサ」と発音されるようになったのです。太秦、ウズマサとは、自らの命を捧げて「処刑された救い主」を意味する言葉だったのです。
”(日本とユダヤのハーモニー:秦氏と京都太秦の謎より)
三柱鳥居は元礼(もとただす)の池で「禊ぎ」が行われていたようなのですが、これがキリスト教の「洗礼」の儀式ではないかともいわれてるようです。
ここまで来ると 眉に唾をつけたくなりますが、 悠久のロマンというこで。
しかし 山本七平氏が「日本人とユダヤ人」という著書のなかで、“処女降誕なき民”の章の冒頭に、“ある「ものずき」が調べたところによると、ユーラシア大陸の西から東まで、処女降誕で生まれた人間は千八百五十六人もいるそうである。もっともこれは調べがついた人数で、記録に残らなかったものまで含めれば、実に膨大な数となろう。とすれば処女降誕伝説は別に珍しいことではないことになる。そのうち西方の有名人をあげればナザレのイエスプラトン、東方では清朝の始祖であろう。実に中国人は、三百年にわたって処女降誕者の子孫の支配をうけ、西欧人は二千年以上にわたって二人の処女降誕者の精神的支配をうけたのだから、これは実に面白い問題である。同時にユーラシア大陸ではこれが、それほど珍しい伝説ではなかったことをも意味している。だれもあえて異論をとなえなかったのだから。ところが、処女から生まれた人間が絶対に存在しなかった民族が二つある。一つはユダヤ人であり、もう一つは日本人である日本のことは、あくまでも私の調べた範囲内であるから、どこかに居るかもしれない。しかし、イザナミイザナギの両ミコト以来、処女から生まれた故に、特別な存在とされた人間は確かにいないし、また特に偉大な人間に処女降誕伝説を付加した形跡もないことは事実である。”
とあるが、 これもまた こんな話もある。聖徳太子の母、間人皇女は救世観音が胎内に入り、皇子を身籠もったとの伝説がある。厩の前で出産したとのことで、釈迦の誕生譚からの影響が大きいき、とする人もいる。釈迦の場合も摩耶夫人が旅行途中の花園で出産している。

 嵐電蚕ノ社駅」に水がある三柱鳥居の写真がありました。









 



 そんなこんなで、「木島坐天照御霊神社」通称(蚕の社)を後にして、嵐電蚕ノ社駅」から嵐山行の電車に乗り 二つ目の駅「帷子ノ辻駅」で下車し、南に徒歩約7分ほど行くと、住宅地のの中にあり場所はきわめてわかりにくいのだが、「蛇塚古墳(へびづかこふん)がある。京都府下でも最大の横穴式石室を持つ前方後円墳である。国の史跡に指定させれています。

築造時期・被葬者は、古墳時代後期の6世紀から7世紀頃の建造とされ、現存する京都府前方後円墳としては最後期に属すし、被葬者は不明であるが、秦一族の首長クラスの人物ではないかと考えられている。被葬者は秦河勝とみる説もある。


普段は錠がかかっていて、内に入れないようなのだが、たまたま 錠を管理されてる地元の方が「錠を開けたげよか」と声をかけていただき、石室内を見ることが出来ました。
 古墳のまわりを一周すると 京都市掲示板あり
その下に 町名が記してありました。“太秦面影町” なんだか昔の人たちの情感に触れたような気がして  好くありませんか“面影”なんてフレーズ 好きです。 
勝手ですが、気分が良くなったのか 太秦駅まで大映通りを歩くことにした。
大映通りは面白い、大魔神の像があったり、 ノスタルジックな みたらし団子屋があったり 銭湯があったり 私の子供の頃を思い出させてくれるような商店街である。


長々綴りましたが、結局 私は“右京区太秦面影町”という町名を発想し、命名できる 日本人でありたいと思いながら帰路につきました。

もしも、イスラエルの民の地が日本人のうちに息吹いているとした。 もしかして 第二次世界大戦中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であったことを思うと杉原千畝の祖先の血と何らかの関係でもあれば、ロマンだなと思いました。

相撲の時に行司がいう「ハッケ・ヨイ」はヘブライ語で「投げつけよ・やっけよ」の意味らいし。「ノコッタノコッタ」は「投げたぞ! やったぞ!」らしい。