太秦(うずまさ)の由来

読みにくい地名てありますよね。この難読地名 京都にもいくつかあります。その難読の代表格が
京都市下京区四条大宮駅から右京区の嵐山駅までを結ぶ京福電気鉄道、通称“嵐電”沿線にある。
太秦」を(うずまさ)と呼ぶ地名があります。


名前の由来は 5世紀古墳時代雄略天皇に税として、帰化人の豪族秦氏「秦酒君(はたのさけのきみ)」が絹を「うず高く積んだ」ことから、朝廷より「禹豆満佐=うずまさ」の姓を与えられ、それに秦氏の拠点(太)という意味で「太秦」の漢字を当てたなどと言われています。

 そこで、嵐電太秦広隆寺駅”で下車して、太秦近辺を散策してみました。
広隆寺は宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山(はちおかさん)と称し、蜂岡寺、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺など別称がある。 帰化人系の氏族である秦氏の氏寺である。国宝の弥勒菩薩の一方の「宝冠弥勒」は日本の古代の仏像といては他に例がない“アカマツ”材で、作風は朝鮮半島新羅風は強いもののようです。


太秦寺山門前から東の通りを東映太秦映画村に進む途中に「大酒神社」があります。

この神社は広隆寺伽藍神として桂宮院に祀られてましたが、明治のはじめの神仏分離令によって現在地に移建されたそうです。毎年10月12日の夜に、広隆寺の境内で執り行われる“太秦牛祭”は、この神社の祭である。京都三大奇祭の一つに数えられ、京都市登録無形民俗文化財になっています。


この神社から東映太秦映画村に北上しないで、そのまま東に進むと 向かって右に鎮守の森が見えてきます。 


この森が「木島坐天照御霊神社」通称(蚕の社)です。 この神社の由緒に「三柱鳥居」につてこう書いてあります。 “全国唯一の鳥居である。 鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組石は本殿ご祭神の神座であり宇宙の中心を表し四方より拝することが出来るよう建立されている。 創立年月は不詳であるが現在の鳥居は享保年間(約三百年前)に修復されたものである。

 一説には景教キリスト教の一派ネストル教 約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている”とある。 この一説の景教の遺物ではないか? から始まるシルクロードを東西に渡る 悠久の歴史の芳醇な香りにグラスを傾けてみることにします。

 ネストル教ですがネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。325年のキリスト教会最初の公会議ニカイア公会議で三位一体説が正統とされたため、それに異を唱えるネストリウス派は431年のエフェソス公会議において異端認定され排斥された。これにより、ネストリウス派ペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。 教義は、キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考える。それは、救世主(キリスト)の神格はイエス福音書に宿り、人格は消え去った肉に宿っていたことを意味する。人性においてキリストを生んだ「マリア」が神の母(テオトコス Θεοτοκος)であることを否定する。(Wikipedia ネストリウス派より)
マリアを神の母と認めなかったことが排斥された要因の一つの様ですね。
 景教空海が開いた真言宗と関連性があるという学者もおられます。
長安の西には、大秦寺というキリスト教寺院があった。ほぼ同時代の京都でも、西側に太秦という地名ができている。そして、京都は長安を手本としながら、いとなまれた。「太」と「大」のちがいは、問題とするにあたらない。どちらも同じ表記であったと、みなしうる。この一致から、京都太秦広隆寺も、キリスト教の寺院であったと考える人がいる。地名の共通性だけが、その根拠となっているわけではない。この説をあかしだてているとされる話は、ほかにもある。
広隆寺の東どなりに、大酒(おおさけ)神社という神社がある。今は「大酒」と書くが、もともとは「大辟」としるしていた。この「辟」に門がまえをそえれば、「闢」という字になる。「大闢」神社という名前が、うかんでくる。ごぞんじだろうか。漢籍に出てくる「大闢」は、ユダヤダビデをさししめす。大酒神社も、もとはダビデ神殿だったのかもしれない。”(朝日新聞 登録193「太秦」めぐる超古代史より)
この三柱鳥居は元礼(もとただす)の池という水の中に立っているのだが、(今は湧水がまわりの宅地開発の影響とかで出なくなり枯れた状態です)三角形の中心に石積みがしてあり、そこに幣帛(へいはく)が1本建てられている。ここに祀られている神の名は天之御中主神。そう、古事記にはたくさんの神が登場しますが、その一番はじめに現れる神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ですあり。唯一神と言っていいのかもしれません。

またこんな説も浮かび上がる。
広隆寺が建立された頃と時を同じく、唐においてはネストリウス派キリスト教である景教の布教が活発になっていました。そして3世紀から7世紀にかけて西アジアを支配したササン朝ペルシャ帝国により育まれてきた景教を638年、唐は公認したのです。その寺院は当初、ペルシャに由来する宗教という意味のヘブライ語 (pharsi、ファシィ)、もしくはペルシャ語の「ファルシィ」の音訳として、「波斯」という漢字が用いられ、中国では「波斯寺」(はしでら)、もしくは「波斯経寺」と名付けられました。その例にもれず、日本では同様に景教のルーツを持つ広隆寺も、「波斯の宗教」、「ペルシャの経」という意味の「波斯経寺」と命名されたのです。そしてこの言葉を語源として広隆寺の元来の名である「蜂岡寺」が、その当て字として生まれました。「経」は「宗教の聖典」を意味しますが、ヘブライ語では (khok、ホック/オク)という「律法」を意味する言葉で言い表します。すると「波斯経」の読みは「ファシオク」なり、その発音に当てた漢字が「蜂岡」です。そして日本語では「波斯経寺」が、「蜂岡(はちおか)寺」と呼ばれるようになったのです。


日本書紀新撰姓氏録によると、秦酒公が朝廷に税を献上する際に、絹を「うず高く積み上げた」ことに感動した天皇が、「兔豆母利麻佐(うつもりまさ)」という姓を秦氏に与えたのがその由来であり、また、続日本紀には、聖武天皇の時代、恭仁京を造営する際に築いた大宮垣の褒美として「太秦」の称号が与えられたと記載されています。
実は「兔豆母利麻佐」という言葉は、「ウツァ・モリッ・マシャ」というヘブライ語に漢字を当てたものであり、その言葉の意味は「処刑された救い主」だったのです。まず (hutsa、フゥツァ)が「(命を)取られる」という意味の言葉であることに注目です。その発音は「ウツァ」とも聞こえ (hutsale-horeg、ウツァ・レホレグ)「処刑される」の意を持つ熟語にも見られます。次に (morish、モリッ)ですが、この言葉は「遺贈者」、「遺言により財産を他人に与える人」を意味します。また (mashiakh、マシァ)は「油注がれた者」、すなわち「メシア」、「救い主」を意味する言葉です。「兔豆母利麻佐」(ウツァモリッマシァ)は「自らの財産を捧げて処刑されたメシア」、つまり「自らの命を捨てて処刑された救い主」という意味になります。その略称が「ウツァ・マシァ」であり、このヘブライ語が日本語では、「ウズマサ」と発音されるようになったのです。太秦、ウズマサとは、自らの命を捧げて「処刑された救い主」を意味する言葉だったのです。
”(日本とユダヤのハーモニー:秦氏と京都太秦の謎より)
三柱鳥居は元礼(もとただす)の池で「禊ぎ」が行われていたようなのですが、これがキリスト教の「洗礼」の儀式ではないかともいわれてるようです。
ここまで来ると 眉に唾をつけたくなりますが、 悠久のロマンというこで。
しかし 山本七平氏が「日本人とユダヤ人」という著書のなかで、“処女降誕なき民”の章の冒頭に、“ある「ものずき」が調べたところによると、ユーラシア大陸の西から東まで、処女降誕で生まれた人間は千八百五十六人もいるそうである。もっともこれは調べがついた人数で、記録に残らなかったものまで含めれば、実に膨大な数となろう。とすれば処女降誕伝説は別に珍しいことではないことになる。そのうち西方の有名人をあげればナザレのイエスプラトン、東方では清朝の始祖であろう。実に中国人は、三百年にわたって処女降誕者の子孫の支配をうけ、西欧人は二千年以上にわたって二人の処女降誕者の精神的支配をうけたのだから、これは実に面白い問題である。同時にユーラシア大陸ではこれが、それほど珍しい伝説ではなかったことをも意味している。だれもあえて異論をとなえなかったのだから。ところが、処女から生まれた人間が絶対に存在しなかった民族が二つある。一つはユダヤ人であり、もう一つは日本人である日本のことは、あくまでも私の調べた範囲内であるから、どこかに居るかもしれない。しかし、イザナミイザナギの両ミコト以来、処女から生まれた故に、特別な存在とされた人間は確かにいないし、また特に偉大な人間に処女降誕伝説を付加した形跡もないことは事実である。”
とあるが、 これもまた こんな話もある。聖徳太子の母、間人皇女は救世観音が胎内に入り、皇子を身籠もったとの伝説がある。厩の前で出産したとのことで、釈迦の誕生譚からの影響が大きいき、とする人もいる。釈迦の場合も摩耶夫人が旅行途中の花園で出産している。

 嵐電蚕ノ社駅」に水がある三柱鳥居の写真がありました。









 



 そんなこんなで、「木島坐天照御霊神社」通称(蚕の社)を後にして、嵐電蚕ノ社駅」から嵐山行の電車に乗り 二つ目の駅「帷子ノ辻駅」で下車し、南に徒歩約7分ほど行くと、住宅地のの中にあり場所はきわめてわかりにくいのだが、「蛇塚古墳(へびづかこふん)がある。京都府下でも最大の横穴式石室を持つ前方後円墳である。国の史跡に指定させれています。

築造時期・被葬者は、古墳時代後期の6世紀から7世紀頃の建造とされ、現存する京都府前方後円墳としては最後期に属すし、被葬者は不明であるが、秦一族の首長クラスの人物ではないかと考えられている。被葬者は秦河勝とみる説もある。


普段は錠がかかっていて、内に入れないようなのだが、たまたま 錠を管理されてる地元の方が「錠を開けたげよか」と声をかけていただき、石室内を見ることが出来ました。
 古墳のまわりを一周すると 京都市掲示板あり
その下に 町名が記してありました。“太秦面影町” なんだか昔の人たちの情感に触れたような気がして  好くありませんか“面影”なんてフレーズ 好きです。 
勝手ですが、気分が良くなったのか 太秦駅まで大映通りを歩くことにした。
大映通りは面白い、大魔神の像があったり、 ノスタルジックな みたらし団子屋があったり 銭湯があったり 私の子供の頃を思い出させてくれるような商店街である。


長々綴りましたが、結局 私は“右京区太秦面影町”という町名を発想し、命名できる 日本人でありたいと思いながら帰路につきました。

もしも、イスラエルの民の地が日本人のうちに息吹いているとした。 もしかして 第二次世界大戦中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であったことを思うと杉原千畝の祖先の血と何らかの関係でもあれば、ロマンだなと思いました。

相撲の時に行司がいう「ハッケ・ヨイ」はヘブライ語で「投げつけよ・やっけよ」の意味らいし。「ノコッタノコッタ」は「投げたぞ! やったぞ!」らしい。

私の にわか勉強から 憲法を考えると

 大日本帝国憲法が成立する経緯などを知ろうと、数冊の本を読んだのですが、
憲法を編纂するに当たり、伊藤博文たち調査団はヨーロッパにて憲法調査を行うのですが、思わしい成果も上がらないなか、焦燥感だけが募っていったようです。そのような状況下 藁をも摑む気持ちでウィーンを訪れ、当時 ウィーン大学の看板教授で著名な国家学者・社会学者であったローレンツ・フォン・シュタインの講義を聴き。「法は民族精神・国民精神の発露」と捉える学派に連なるシュタインの講義から 伊藤は「そうか、憲法はまず日本の歴史や伝統に基づいて作ればいいのか」と確信を抱くに至り、この精神を基に大日本帝国憲法を作ったようです。
 この大日本帝国憲法は内外から高評価を得たようで、国内的には 自由民権運動家からも異議をとなえる動きはなかったようですし、もちろん「統帥権」が天皇の大権のひとっで 大日本帝国憲法第11条 「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と記したこと、 政府(内閣や議会)の管轄から独立させたことも問題にならなかったのです。それよりも当時は政治家に軍事力を握らしたら、何に使うか分からないという不安の方が大きかったようです。 面白いですね。 現在はシビリアンコントロール文民統制)、文民の政治家が軍を統制する方が安全だと考えられてる。伊藤ら当時の人たちは軍事力の本質と戦争に勝利する肝をよく承知されていたように感じられます。
 軍事力と政治の関係を表す一つにシビリアンコントロールというものがありますが、日本では「文民統制」と訳されてます。イギリスではシビリアンコントロールではなく “civilian supremacy”「文民優位」とされているものですが、なぜか イギリスの方が機能的な感じがします。
 私が思うに、明治、大正、昭和と軍の力が肥大していく中、この軍と政治の関係が何とか「文民優位」で行えた事例が、大正7年に総理大臣の就任された 原敬内閣の時ではないかと思うのです。原総理は 軍のシベリアからの完全撤兵を決定し、実現された方です。 ただ 大正10年11月4日に東京駅丸の内南口で右翼青年の襲撃により刺殺されます。当時はこのような暗殺におもむく連中がいる世情だったんだという事ですね。
 そう 話を憲法に戻しまして、 いろいろ調べていると ある人物に興味を惹かれたので紹介します。 その人は昭和20年ごろ日本を代表する憲法学者であられた佐々木惣一博士です。 私が興味を引いたのは、昭和13年第73議会に提出あれ、制定された法律「国家総動員法」について『議会の審議を経た法律ではなく「勅令」によって、国民の自由を制限することを問題視する』と言われたのです。当時 軍部からの圧力に敢然と抵抗された方です。その佐々木惣一 氏が 
 昭和21年10月5日 マッカーサーの命令により上程された帝国憲法改正案に対して、貴族院でそれを「不可」とする反対演説をされたのです。当時の占領政策の厳しかった、マッカーサー監視下の貴族院でのこのような演説は真に勇気のいることだと思います。 演説の一部を下記に記します。(著書:明治憲法の真実より)
 「私は帝国憲法改正案反対の意見を有するものであります。この意見を、わが貴族院の壇上において述べますことは、私にとって実に言いがたき苦痛であります。今日帝憲法を改正することを考えることそのことは、私も政府と全く同じ考えでありまが、ただ今回提案の如くに改正することは、私の賛成せざるところであります。冒頭、私が帝国憲法改正案に対しまして、賛否を決するに当って、いかなる点に標準をおくかということについて一言いたします」
「帝国憲法はみなさんご存じのとおりに、明治天皇が長年月にわたり、わが国の歴史に徴し、外国の制度の理論と実際とを調査せしめ給い、その結果につきご裁定になったものであります。その根本は、政治を民意と合致して行い、また国民の自由を尊重して政治を行うという原理に立っているのであります。加うるに、明治天皇憲法制定の事務をお考えになったのみでなく、ご一個として、明治維新以来つとに民意政治を原理とするの必要を思わせられまして、そうしてそのご教養のために、あるいはわが国に学者を招いて外国の書を講ぜしめ給い、あるいは侍臣をイギリスに派遣せられまして、その制度を研究せしめ給うたのであります。(中略) かくのごとく上に聖天子あり、下に愛国先覚の国民あり、また事務的に精励の当局あり、かくのごとく上下一致して長年月の努力の結果、ようやくにして成立しましたところの帝国憲法が、その発布以来今日にいたるまで幾十年、これがいかに大いにわが国の国家の発展、わが社会の進歩に役立ったかは、ここに喋々するまでもありません。その憲法がいま一朝にして勿々の間に消滅の命にさらされているのであります。実に感慨無量であるのであります」

博士の演説が終わると、議場には嵐のような拍手が巻き起こったとあります。
博士はこの演説の1年前に 昭和天皇から「憲法改正の必要があるか否か、あるとすればその範囲はいかなるものか」というご下問を受け、その考査する役に任じられ、その考査の報告を説明する 陛下への御進講をされてます。 その時の様子は陛下は終始熱心に佐々木博士の進講に耳を傾けらてていたようで 博士は「なんという有り難さ」と思われたようです。
また、博士は “天皇の戦争責任” にも言及されたます。「敗戦前後の佐々木惣一・近衛文麿との関係を中心に」のP134最後から5行目からの内容でわかります。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134785/1/98_117.pdf

この論文 全文読まれるのも面白いですよ。 終戦少し前に、高松宮が博士にいろいろ憲法の解釈について問われて、その中で「天皇が総理大臣を罷免できるのか」と問われ、博士は「できる」と答えられたそうです。 それから間もなく東条さんが罷免されたそうです。 といったことも書かれたますので、お読みになると面白いと私は思います。 

では、博士は これほど大日本帝国憲法を大切にされたのか、 
私のような、憲法を読んだこともない者に論じる知識も能力もないのですが、 ここで 頑張って、 現憲法である。日本国憲法の前文を読むことにします。
前 文
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」。

私の感想は、自ら言っているのではなく 言わされてる感があり 何かに縛られてる感もあります また 新たに何かに向かうという躍動感を感じないのです。
では、 明治天皇五箇条の御誓文を起点としてして編纂が始まったと思われる大日本帝国憲法。 これには前文はありませんが、 あえて私が考える前文はこの五箇条の御誓文ではないかと思うのです。そこで最後に 五箇条の御誓文を紹介します。

一 、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一 、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

(現代表記)
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
  (広く人材を求めて会議を開き、すべて公正な意見によって決定しよう。)
一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
  (身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国を治め整えよう。)
一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
  (文官や武官はいうまでもなく、一般の国民もそれぞれ自分の職責を果たし、人々に希望を失わせないことが肝要である。)
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
  (これまでのようなかたくなな習慣を打破し、何事も普遍的な道理に基づいて行動しよう。)
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
  (知識を世界に求めて、天皇を中心とする伝統を大切にして、大いに国を発展させよう。)

なぜか これが前文なら 私は後に続く1章から11章を読んでみようかという気になります。
憲法改正の是非の前に 憲法とは何かを学ぶことが大切なような気がしました。
憲法とは何かを知らずして憲法の話をしたら 付け焼刃のようなものしかできないような気がします。

私は決して神学的論の信奉者ではありません。

人生で初めて

 京都駅から祇園会と 25mm単焦点レンズ(35mm換算で50mm)で町撮りして ぶらぶら歩いていたら、
 宮川町辺りで舞妓さんに遭遇 思い切って「写真を撮らしてもらいますか」とお願いすると「はい(*^_^*)」笑顔で答えてくださった。
 人生で初めて 見知らぬ人に声をかけて 写真を撮ったの記念すべきPhotoです。



皇太子徳仁親王の記者会を見て思ったこと


宮内庁の公式ウエブサイトに皇太子殿下お誕生日に際し(平成22年)
会見の内容が載っていますがその中で、私が “ほー” と思ったところが下記の・・・光厳天皇にあてて・・・のところです。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h22az.html

『また,教えと言えば,大学を卒業の会見の折にお話ししていることですが,歴代天皇のご事蹟を学ぶ中で,第95代の花園天皇が,当時の皇太子−後の光厳こうごん天皇にあてて書き残した書に,まず徳を積むことの重要性を説き,そのためには学問をしなければいけないと説いておられることに感銘を受けたことを思い出します。そして,花園天皇の言われる「学問」とは,単に博学になるということだけではなくて,人間として学ぶべき道義や礼義をも含めての意味で使われた言葉です。私も,50歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています。』

花園天皇は第95代なんですが、第96代天皇は何方かご存知ですか?
聞いたことがあると思いますよ、 後醍醐天皇なんですよ ザックリ言って あの足利尊氏とやりあった。(あ! 親房さんに怒られる 高氏でした てなことで)
光厳天皇はこの“第◯◯代”が付く系図でない 天皇なんです、南北朝時代北朝初代天皇なんです。 ちなみに 後醍醐天皇南朝の初代 天皇です。
先ほどちらっと出てきた 親房さんと親しく呼んだ方は実は「神皇正統記」を書かれた北畠親房さん です(さん も馴れ馴れしいな お許しを)
この “大日本は神の国なり” 始まる「神皇正統記」 は 後の日本の歴史学者や多くの人に影響を与えた書物です。
江戸の朱子学新井白石もこの書物に影響を受けた人物でしょう。
そこで私の“ほー”に戻りますが、新井白石の本に「読史余論」といのがあるんですが、この書物、白石は 天皇制を二期にはっきりとわけているのです。
一期を前期天皇制とすると「神話時代から後亀山院」までで、「天皇」としては 後醍醐天皇が最後であると 後期天皇制を「光厳天院から 白石の時代までと分けていて、 後期天皇制を「武家のために」武家が作ったものだと、規定している。
南朝天皇として正統と考えてられるようである。しかし 南朝は終わり、 「武家のために」武家が作った 北朝今上天皇まで続いているのか いや明治維新で変わったのか?

ただ 皇太子徳仁親王が記者会見でおっしゃてられた 花園天皇が当時の皇太子(後の光厳天皇)に書き残した書「太子を誡むるの書」の話をされているのを知り、 「武家のために」武家が作った 北朝の書を 参考にされて話してられるのが “ほー”いう思いを私に起こさせたのです。

ところで、新井白石 はこんなことを言ってられる「南帝高福院殿崩御。御神璽帰洛」と 高福院で南朝は終わったと言っているです。

尊雅王(高福院)以降も南朝後胤は断片的に登場したようですが、しかし、彼らの系譜は全く不明です。尊雅王(高福院)はなんとか分かっているという意味で最後の王です。明治時代、元老院が編纂した「纂集御系図」にも尊雅王が載っていますので、現王朝である北朝もその存在を認めていると言えるです。(参考、熊野市百科大事典:歴史『後南朝尊雅王 (南天王)』 より)

そんなわけで、 南朝 最後の尊雅王こと高福院のお墓と言われているものです。


宝鏡山 光福寺 三重県熊野市飛鳥町神山202

とむらい ( 死者の鎮魂と不滅 )

京都東山、円山公園から南へ下り“ねねの道”と“二年坂、三年坂”の間に東山に向かって“維新の道”と云う 70mほどの上り坂があるのですが、その先に このような看板がある。




この神社の中には、木戸孝允桂小五郎)妻 幾松の墓や 坂本龍馬中岡慎太郎の墓があります。
坂本、中岡 両氏の墓から、京都の都が一望できます。




平成9年(西暦1997年) インド独立50周年を記念して造られたのです。 このニュースを聞いて一度 このパール博士顕彰碑には訪れたことがあります。今回再度訪れて この時 パール博士の東京裁判関係の本を読んだことを思い出し、帰宅してから本棚を探したんですが見つかりませんでした。本の題名も思いだせませんが、 心に残っているのは パール判事とオランダのベルト・レーリング判事のことです。 特にベルト・レーリング判事の真情の方が私には感じるものがあったことを思えています。


8年後 平成17年(西暦2005年)東京の方にも パール博士顕彰碑ができたそうです。
追伸、 フランスの判事は 流石 ルイ16世マリー・アントワネット をギロチンにかけた共和国の方だなと思ってね。

ところで、この京都霊山護国神社は、慶応4年 明治元年(西暦1868年)に明治天皇の発案により創建された日本初の招魂社であるらしい。 その後 江戸に遷都され東京が都となった時、明治2年に 東京にも東京招魂社が創られたようです。これが西南戦争が終わって2年後明治12年に、これまた明治天皇命名により靖国神社と改称されて、地方の招魂社は昭和14年護国神社と改称されたとのことです。
 靖国神社と改称されたも東京の庶民には招魂社と呼ばれていたようですね。 夏目漱石の「吾輩は猫である」に こんな一節がありますから“とん子”という娘が「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
 この本の発刊を調べてみると明治38年ごろですから、靖国という意識はなかなか定着しなかったのでしょうかね。
因みに、日清戦争明治27年から28年。 日露戦争が37年から38年ですから 今の靖国神社のイメージは昭和になってからでしょうか。




 死者の鎮魂でという意味で、南北戦争で62万人の戦士が亡くなった痛ましい戦いにアメリカの人々はどう対処したのか興味がありませんか、というのも 靖国神社が ややもすると「長州神社」と言われる所以は“合祀”の選択基準の分かり辛さでしょう。 基本的に朝廷の為に戦って戦死した方々なんですが、創建当時の合祀には、「禁門の変」での御所に攻め込んだ長州藩勢は合祀対象で、 御所を守った会津藩勢は合祀されませんでした。半世紀ほどして合祀されましたが、 しかし 戊辰戦争での会津藩勢をはじめ賊軍となった人たち、 西郷隆盛以下 西南戦争で賊軍となった人たちも合祀対象ではないことえの切なさを感じたからです。
ここで、この著書の一節を幾つか紹介します。
 『1863年、南軍の従軍牧師は兵士を前にして次のように説いている。「兵隊である皆さんの務めは、死ぬことなのです」。南北戦争アメリカ人の男たちは、栄光や征服、国を救うこと、つくること、敵を一掃することなどを口にしていたが、真の使命は国家のために自分の命を捧げることであると理解していた。連邦軍に志願した動機としてE・G・アボットが書いていることは、多くの兵士にもあてはまった。「僕が戦争にやってきたのは、自分の命を捧げるためだ」。南軍の兵士も次のように望んだ。「死を避けることを第一に考えるのではなく、死んで戦争に勝ちわれわれの大義に貢献することが願いだ」。国家、神、同士への奉仕という美辞麗句が、この破壊的な戦争の暴力を正当化し、戦争は国家主義者やキリスト教徒としての責務を実行する手段であると規定した。兵士は神と国家のために死ぬのだと。「人殺しをするために戦場に行ったのではない。決して!・・・神はご存知だし、僕の見方になってくれるだろう」と言ったミシガン州出身のジョン・ワイザートは、戦闘後のおぞましい光景を見ていかに「身の毛がよだつ思いをしたか」書き残している。殺戮よりも、死に心を集中させることが、同じ人間を殺すという重圧を軽減してくれた。間近で息絶える兵士たちの姿に自分を重ね合わせることにより、自分自身の死とその意義を何とか受け入れようと苦しんだ。兵士が気持ちの整理をし、行動の規範をつくりあげていくなかで自らの死が殺戮よりも明らかに上に置かれた』。
 アメリカ人も 日本人と そんなに変わらないじゃないのと感じました。

次は、アメリカも最初は東軍(勝者)の死体しか埋葬しなかったようです、南軍の兵士は野ざらし状態に近い状況だったようですね。 ではそれをあらわしてる一説を
『1866年4月、国立墓地システムを提案した共同議会決議は、ヴァージニァ州の白人たちから怒りの反応を引き起こした。北部人たちは間違っている、と『リッチモンド・イグザミナー』紙は宣言し、南部兵士は「負けたから英雄の価値が下がる」わけではないと主張した。リッチモンドの女性教会員に、ヴァージニアの戦没者に対する責任を担うことを呼びかけた同紙は、南部は強制的に再統合させられたのに、国からのけ者にされているとは皮肉だと述べている。もし、南部兵士たちが「『国家の戦死者』のカテゴリーに入らないのなら彼らはわれわれの[南部の]ものである。もし、われわれが彼らの遺骨の面倒をみなかったとしたら恥であろう」』
 ここが靖国の合祀と少し違うんですが、日本国内ならほとんどが個々に埋葬されたと思いますので、合祀は別物のように思うようになりました。

また 次の一節を紹介します。
 『1871年チャールストンのマグノリァ霊園で行われたゲティズバーグの戦死者再埋葬を記念する式典の主要演説者であったが、「われわれは死者を弔うためだけにここに集ったわけではありません」と述べ、この集まりの政治的な性格を明らかにしている。この集まりは、過去のことだけでなく、「生者の問題」を提起するものだと説明された。それは「大きな戦いへとわれわれを導いた理念」に関わる「われわれの将来に影響を及ぼす巨大な問題」であった。その理念とは州権であり、「急進主義」や人種的「混合」への反対であると彼は説明している。生者は強力で避けることのできない問いに直面している。それは、「これらの男たちは無駄死にしたのか?」というものだ。死者に敬意を払うことは、南部連合の理念を引き続き弁護することを要求する。その理念は「負かさたのであって必ずしも失われたわけではない」。』

南部連合の理念は国家としては生きながらえなかったが、その戦死者はある意味で国家の身体で、組織体の表象となり、かつての姿ばかりか、あるべき姿を呼び起こす象徴となった。』

『国立墓地と南軍墓地との設立は、一つのカテゴリーとしての南北戦争の死者をつくりだした。つまり、霊園が取り込んできた何千人もの個人の死とは異なる、それ以上の何かを表象する一つの集合体である。それはまた、死者を、特定の故人を偲ぶ生者一人一人の思い出から分離するものとなった。南北戦争の死者は強力にそして不滅になった。もはや
個々の人間ではなく、少なくともこれから迎える一世紀の問アメリカの公共生活を形作ることになる力であった。再埋葬運動は、殺害された者の政治団体[constituency]をつくりだし、その存在と沈黙が主張された。アメリカ生活において彼らが不在である事実が、無視できない存在へとならしめたのだ。』


最後に
これを読んで、私はアメリカの南部魂は永遠に続くような気がしてきたのである。それは 人は父や母や多くの人の背に あるものを感じることができる生物だからです。
「無駄死にしたのか?」と問われれば 「いや 決してそんなことはない そうはさせない未来を創る」と私は答える。

安らかにお眠りください。


 

「おぼこい」思い。

  私は60生きて“naive”な人間である。「おぼこい」からこのような書き込みをするんだろうが、
「戦争法案」とレッテルを張って、言霊で思考を停止さす仕法は、議会人が使う言葉というよりも、 独裁者が好んで使うフレーズのように感じてしまいます。
 世界は司馬光の記した「資治通鑑」のような生臭いものなのである、このような世界と対峙できる体制の一つとして「安保関連法案」を審議していただきたい。
 また、
 私は靖国神社に個人的に参拝されることになんの違和感もかんじないが、政権担当者の一員が参拝されることには「個人的」と言われても 違和感を感じるのです。
 たぶん 私の中で“靖国神社”とは 他の寺社仏閣と異なり 為政者が安易に防人の生命を尊いものと扱っているように装う装置のようにしか思えないことと、
 防人が生命、倫理観の極限で戦う場においても、冷静な作戦行動より、“神風”的な行動をとる要素にならないか心配しているからでしょう

 私は自衛権を発動するに「閣議決定」じゃないと時を逸することがあると考えてます。しかし「閣議決定」される構成員が、靖国神社などのような感情を高揚されるようなものに対しての嗜好をお持ちの方がおられるということに、一抹の不安を覚えるのです。
 太平洋戦争の経験を活かして 防人の生命と財産と精神を守れる“安全保障関連法”を構築していただきたく思っています。

千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています” と 口ずさむ 私がいます。