皇太子徳仁親王の記者会を見て思ったこと


宮内庁の公式ウエブサイトに皇太子殿下お誕生日に際し(平成22年)
会見の内容が載っていますがその中で、私が “ほー” と思ったところが下記の・・・光厳天皇にあてて・・・のところです。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h22az.html

『また,教えと言えば,大学を卒業の会見の折にお話ししていることですが,歴代天皇のご事蹟を学ぶ中で,第95代の花園天皇が,当時の皇太子−後の光厳こうごん天皇にあてて書き残した書に,まず徳を積むことの重要性を説き,そのためには学問をしなければいけないと説いておられることに感銘を受けたことを思い出します。そして,花園天皇の言われる「学問」とは,単に博学になるということだけではなくて,人間として学ぶべき道義や礼義をも含めての意味で使われた言葉です。私も,50歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています。』

花園天皇は第95代なんですが、第96代天皇は何方かご存知ですか?
聞いたことがあると思いますよ、 後醍醐天皇なんですよ ザックリ言って あの足利尊氏とやりあった。(あ! 親房さんに怒られる 高氏でした てなことで)
光厳天皇はこの“第◯◯代”が付く系図でない 天皇なんです、南北朝時代北朝初代天皇なんです。 ちなみに 後醍醐天皇南朝の初代 天皇です。
先ほどちらっと出てきた 親房さんと親しく呼んだ方は実は「神皇正統記」を書かれた北畠親房さん です(さん も馴れ馴れしいな お許しを)
この “大日本は神の国なり” 始まる「神皇正統記」 は 後の日本の歴史学者や多くの人に影響を与えた書物です。
江戸の朱子学新井白石もこの書物に影響を受けた人物でしょう。
そこで私の“ほー”に戻りますが、新井白石の本に「読史余論」といのがあるんですが、この書物、白石は 天皇制を二期にはっきりとわけているのです。
一期を前期天皇制とすると「神話時代から後亀山院」までで、「天皇」としては 後醍醐天皇が最後であると 後期天皇制を「光厳天院から 白石の時代までと分けていて、 後期天皇制を「武家のために」武家が作ったものだと、規定している。
南朝天皇として正統と考えてられるようである。しかし 南朝は終わり、 「武家のために」武家が作った 北朝今上天皇まで続いているのか いや明治維新で変わったのか?

ただ 皇太子徳仁親王が記者会見でおっしゃてられた 花園天皇が当時の皇太子(後の光厳天皇)に書き残した書「太子を誡むるの書」の話をされているのを知り、 「武家のために」武家が作った 北朝の書を 参考にされて話してられるのが “ほー”いう思いを私に起こさせたのです。

ところで、新井白石 はこんなことを言ってられる「南帝高福院殿崩御。御神璽帰洛」と 高福院で南朝は終わったと言っているです。

尊雅王(高福院)以降も南朝後胤は断片的に登場したようですが、しかし、彼らの系譜は全く不明です。尊雅王(高福院)はなんとか分かっているという意味で最後の王です。明治時代、元老院が編纂した「纂集御系図」にも尊雅王が載っていますので、現王朝である北朝もその存在を認めていると言えるです。(参考、熊野市百科大事典:歴史『後南朝尊雅王 (南天王)』 より)

そんなわけで、 南朝 最後の尊雅王こと高福院のお墓と言われているものです。


宝鏡山 光福寺 三重県熊野市飛鳥町神山202