とむらい ( 死者の鎮魂と不滅 )

京都東山、円山公園から南へ下り“ねねの道”と“二年坂、三年坂”の間に東山に向かって“維新の道”と云う 70mほどの上り坂があるのですが、その先に このような看板がある。




この神社の中には、木戸孝允桂小五郎)妻 幾松の墓や 坂本龍馬中岡慎太郎の墓があります。
坂本、中岡 両氏の墓から、京都の都が一望できます。




平成9年(西暦1997年) インド独立50周年を記念して造られたのです。 このニュースを聞いて一度 このパール博士顕彰碑には訪れたことがあります。今回再度訪れて この時 パール博士の東京裁判関係の本を読んだことを思い出し、帰宅してから本棚を探したんですが見つかりませんでした。本の題名も思いだせませんが、 心に残っているのは パール判事とオランダのベルト・レーリング判事のことです。 特にベルト・レーリング判事の真情の方が私には感じるものがあったことを思えています。


8年後 平成17年(西暦2005年)東京の方にも パール博士顕彰碑ができたそうです。
追伸、 フランスの判事は 流石 ルイ16世マリー・アントワネット をギロチンにかけた共和国の方だなと思ってね。

ところで、この京都霊山護国神社は、慶応4年 明治元年(西暦1868年)に明治天皇の発案により創建された日本初の招魂社であるらしい。 その後 江戸に遷都され東京が都となった時、明治2年に 東京にも東京招魂社が創られたようです。これが西南戦争が終わって2年後明治12年に、これまた明治天皇命名により靖国神社と改称されて、地方の招魂社は昭和14年護国神社と改称されたとのことです。
 靖国神社と改称されたも東京の庶民には招魂社と呼ばれていたようですね。 夏目漱石の「吾輩は猫である」に こんな一節がありますから“とん子”という娘が「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
 この本の発刊を調べてみると明治38年ごろですから、靖国という意識はなかなか定着しなかったのでしょうかね。
因みに、日清戦争明治27年から28年。 日露戦争が37年から38年ですから 今の靖国神社のイメージは昭和になってからでしょうか。




 死者の鎮魂でという意味で、南北戦争で62万人の戦士が亡くなった痛ましい戦いにアメリカの人々はどう対処したのか興味がありませんか、というのも 靖国神社が ややもすると「長州神社」と言われる所以は“合祀”の選択基準の分かり辛さでしょう。 基本的に朝廷の為に戦って戦死した方々なんですが、創建当時の合祀には、「禁門の変」での御所に攻め込んだ長州藩勢は合祀対象で、 御所を守った会津藩勢は合祀されませんでした。半世紀ほどして合祀されましたが、 しかし 戊辰戦争での会津藩勢をはじめ賊軍となった人たち、 西郷隆盛以下 西南戦争で賊軍となった人たちも合祀対象ではないことえの切なさを感じたからです。
ここで、この著書の一節を幾つか紹介します。
 『1863年、南軍の従軍牧師は兵士を前にして次のように説いている。「兵隊である皆さんの務めは、死ぬことなのです」。南北戦争アメリカ人の男たちは、栄光や征服、国を救うこと、つくること、敵を一掃することなどを口にしていたが、真の使命は国家のために自分の命を捧げることであると理解していた。連邦軍に志願した動機としてE・G・アボットが書いていることは、多くの兵士にもあてはまった。「僕が戦争にやってきたのは、自分の命を捧げるためだ」。南軍の兵士も次のように望んだ。「死を避けることを第一に考えるのではなく、死んで戦争に勝ちわれわれの大義に貢献することが願いだ」。国家、神、同士への奉仕という美辞麗句が、この破壊的な戦争の暴力を正当化し、戦争は国家主義者やキリスト教徒としての責務を実行する手段であると規定した。兵士は神と国家のために死ぬのだと。「人殺しをするために戦場に行ったのではない。決して!・・・神はご存知だし、僕の見方になってくれるだろう」と言ったミシガン州出身のジョン・ワイザートは、戦闘後のおぞましい光景を見ていかに「身の毛がよだつ思いをしたか」書き残している。殺戮よりも、死に心を集中させることが、同じ人間を殺すという重圧を軽減してくれた。間近で息絶える兵士たちの姿に自分を重ね合わせることにより、自分自身の死とその意義を何とか受け入れようと苦しんだ。兵士が気持ちの整理をし、行動の規範をつくりあげていくなかで自らの死が殺戮よりも明らかに上に置かれた』。
 アメリカ人も 日本人と そんなに変わらないじゃないのと感じました。

次は、アメリカも最初は東軍(勝者)の死体しか埋葬しなかったようです、南軍の兵士は野ざらし状態に近い状況だったようですね。 ではそれをあらわしてる一説を
『1866年4月、国立墓地システムを提案した共同議会決議は、ヴァージニァ州の白人たちから怒りの反応を引き起こした。北部人たちは間違っている、と『リッチモンド・イグザミナー』紙は宣言し、南部兵士は「負けたから英雄の価値が下がる」わけではないと主張した。リッチモンドの女性教会員に、ヴァージニアの戦没者に対する責任を担うことを呼びかけた同紙は、南部は強制的に再統合させられたのに、国からのけ者にされているとは皮肉だと述べている。もし、南部兵士たちが「『国家の戦死者』のカテゴリーに入らないのなら彼らはわれわれの[南部の]ものである。もし、われわれが彼らの遺骨の面倒をみなかったとしたら恥であろう」』
 ここが靖国の合祀と少し違うんですが、日本国内ならほとんどが個々に埋葬されたと思いますので、合祀は別物のように思うようになりました。

また 次の一節を紹介します。
 『1871年チャールストンのマグノリァ霊園で行われたゲティズバーグの戦死者再埋葬を記念する式典の主要演説者であったが、「われわれは死者を弔うためだけにここに集ったわけではありません」と述べ、この集まりの政治的な性格を明らかにしている。この集まりは、過去のことだけでなく、「生者の問題」を提起するものだと説明された。それは「大きな戦いへとわれわれを導いた理念」に関わる「われわれの将来に影響を及ぼす巨大な問題」であった。その理念とは州権であり、「急進主義」や人種的「混合」への反対であると彼は説明している。生者は強力で避けることのできない問いに直面している。それは、「これらの男たちは無駄死にしたのか?」というものだ。死者に敬意を払うことは、南部連合の理念を引き続き弁護することを要求する。その理念は「負かさたのであって必ずしも失われたわけではない」。』

南部連合の理念は国家としては生きながらえなかったが、その戦死者はある意味で国家の身体で、組織体の表象となり、かつての姿ばかりか、あるべき姿を呼び起こす象徴となった。』

『国立墓地と南軍墓地との設立は、一つのカテゴリーとしての南北戦争の死者をつくりだした。つまり、霊園が取り込んできた何千人もの個人の死とは異なる、それ以上の何かを表象する一つの集合体である。それはまた、死者を、特定の故人を偲ぶ生者一人一人の思い出から分離するものとなった。南北戦争の死者は強力にそして不滅になった。もはや
個々の人間ではなく、少なくともこれから迎える一世紀の問アメリカの公共生活を形作ることになる力であった。再埋葬運動は、殺害された者の政治団体[constituency]をつくりだし、その存在と沈黙が主張された。アメリカ生活において彼らが不在である事実が、無視できない存在へとならしめたのだ。』


最後に
これを読んで、私はアメリカの南部魂は永遠に続くような気がしてきたのである。それは 人は父や母や多くの人の背に あるものを感じることができる生物だからです。
「無駄死にしたのか?」と問われれば 「いや 決してそんなことはない そうはさせない未来を創る」と私は答える。

安らかにお眠りください。