人々の声が響き合うとき(ジェイムズ・S・フィシュキン) 真の民意とは?

2012年6月10日 午後 祇園四条通り 八坂さんから鴨川に向かって行進しているデモを見た。
デモの最後尾を歩くという判断はしなかった、私がいる。
そして 今 判断した自分自身を疑っている。


人々の声が響き合うとき(ジェイムズ・S・フィシュキン)
 この著書は現代は、民主主義の実験の時代である。「合理的無知」「説得産業による印象操作」に支配された現行の世論調査では真の民意は諮れない。本書は、熟議にもとづく民主主義理論を展開し、熟議の質を高める条件を提起する。著書は世論調査と熟議に基づく討論フォーラムを結びつけた「討論型世論調査=DP」のシステムを考案。アメリカ、EU、中国を含む世界の15以上の国・地域で、40回以上の実証実験をおこなった。無作為に選ばれた市民のグルプが、正しい情報と様々な立場の意見を考慮した上でおこなう議論は、いかなる答えを導くのか?理論と実践が結びついたDPの実験をあますところなく紹介する一冊。 
と本の帯に書いてある。

 
 「討論型世論調査=DP」この耳慣れない言葉とシステムは、どの様なものなのか本書を読んでもらわないと理解できないと思うのですが ざっと流れを私なりに紹介すると 最近この日本で取り入れられた裁判員制度を思ってもらえばよいのではないでしょうか 無作為に人を選出して 検事 弁護士 それぞれの意見を聞き 専門の裁判官の助言をもとに 判決を導く。しかし 著者はこの裁判員制度陪審制)の問題点も指摘されているので 一概に裁判員制度陪審制)の5〜6名前後の人数を数百人規模に拡大したとものとは思わないで下さい。
 私の思いは、ここで出される結果よりもプロセスに興味をいだいたのです。 いや結果が一番大切なのでしょうが 今の議会制民主主義をになう 有権者、議員、官僚、企業のトップの方々は何を判断基準にされているのか、私は彼らを信頼してよいのか いや自分を信頼していいのか ふと戸惑いを覚えるのです。
 そんな戸惑いの中 この著書を読んで 社会がある一つの結論を導き出すシステムの試みとして興味を引かれたのです。

 少し本文を抜粋したものを記します。一つは“中国の例” もう一つは“1996年にテキサス州の複数の電力会社と共同で供給地域でどのように電力を提供するかという内容を討論型世論調査という形式で実施した” 例です。
『熟議で結果を出す』
 “中国の例”
 中国の地方民主主義の第一人者である何包鋼教授と提携し、浙江省温嶺市沢国鎮地区(上海から南に300キロ)の町の自治体が実施した「どういった社会基盤を築くべきか」という重要な決定をくだすための討論型世論調査に私たちも協力した。可能な社会基盤建設プロジェクトは30件あったが、次年度はそのうち10件分ほどの予算しかなかった。そのため、一般道、高速道路、新しい広場、下水処理場、様々な種類の公園、広範的な環境対策などといった、質的に種類が異なる支出項目の中で取捨選択をしなければならないという問題があった。
 地方の役人たちは、そういった問題に関する民衆の意見聴衆に長年関心を寄せていた。この地方には、町民を召集して「忌憚のない話し合い」を開く、「懇談」という伝統がある。しかし、西欧の「タウンミーティング」と同様に、こういった会合にははっきりとした欠点がある。まず、任意参加のため、争点にもっとも深刻な影響をうける人々の比率が明らかに高くなる。次に、押し出しの強い、裕福で高学歴の町の名士ばかりで会合の出席者が占められる。また、議論の場が設けられることで問題点は検討されるものの、確固とした意思決定の方法は定まっておらず、話し合いによる明確な成果はなかった。会合は透明性の向上や関心事の共有に役立ったが、政策決定の過程に実際に影響をおよぼすような形ではおこなわれていなかった。
 地元の政策担当の役人たちは、こういった問題の対策になるかもしれないとして、討論型世論調査に関心を寄せた。討論型世論調査では、自薦の参加者でなく、コミュニティを代表するサンプルによる意見聴取がおこなわれる。地元の名士が参加者の大半を占めるわけではないので、より平等な参加をうながす方法になりうる。また、熟議の実施前と後で、はっきりとした統計上の結果が得られる。原理的には、政策決定の明確な指針が得られるはずである。
 地元の監修委員会が、提案された30件のプロジェクトについて、それぞれ支持説と反対説を載せた説明資料を作成した。どのプロジェクトについても支持者がパネルに入っているように、プロジェクトについて全体会議で質問に答える専門家の人選がおこなわれた。30件のプロジェクト案に対する市民の政策態度、知識質問、価値観、実証的根拠に関する質問や、また最終アンケートではイベントの評価の質問を含む、標準的なアンケートが作成された。地元の教師たちは、自分の意見を表に出さずに小グループの議論を司会する訓練をうけた。地元の高校が会場に選ばれ、熟議がおこなわれる週末の日程が決められた。町の自治体はこのプロジェクトの結果を政策決定に役立てることを意図しており、その全費用を負担した。
 ここで、四つの基本的な問題を検討しよう。第一に、誰を含めるのか。住民票台帳から275名の住民が無作為に選ばれた。これらのうち、269名が初期調査に応じ、235名が実際に当日来場し、終日の熟議に参加し、最終アンケートに回答した。初期サンプルでは男性の比率が高すぎたが、参加者のサンプルはほぼ市民全体のサンプルの比率と同じで、参加者と非参加者の間にこれといった差は見られなかった。意見の面でも人口統計上でも、235名の参加者たちは、約12万人の有権者からなるコミュニティのよい縮図となるものだった。
 次に、プロセスではどの程度の熟考がおこなわれただろうか。参加者の意見には明白で一貫した変化が見られた。概して、下水処理場建設案と、町の各地域を結ぶ大通りの建設案への支持が大きく高まった。その他の道路建設案は支持率がさがった。立派な町の広場をつくるという案は支持率がさがったが、人々の憩いの場となる公園の建設案と広範的な環境対策案は支持率があがった。30件のプロジェクト案のうち、12件の支持率に統計上有意な純変化が見られた。
 さらに、参加者たちの知識が深まった。比較的設問数の少ない知識を問う質問(4問のみ)からでも、平均して統計上の有意の11パーセントの上昇という結果が得られた。
 その上、情報量の増加にともない意見の変化が起こるというパターンがここでも見られた。ほかの討論型世論調査の典型的なパターンと同じく、政策に対する意見に変化が見られたのは情報量が増えた参加者だった。つまり調査の結果は、社会のよい縮図となる人々が問題について詳しくなるとどのような意見を持つかを示しているということであり、・・・・
 この討論型世論調査のプロジェクトは、北京で開催された、公聴会制度の改革についての会議で取りあげられた。討論型世論調査の開催を決定した主要な意思決定者である、沢国鎮地区の議長蒋招華が討論型世論調査について説明した。特に、地方人民代表大会ではなく、わざわざ統計的な無作為に選出されたサンプルを集めたのはなぜなのかという点に質問が寄せられた。地方人民代表大会はゴム印のようなものであり、人々の本当の意思を知ることは難しい、と彼は答えた。中央政府公聴会専門家が、「中国では決定は『科学的、民主的、合法的』という三つの基準を満たしていなければならないが、討論型世論調査はこれらの基準をどうやって満たすことができるのか」と質問した。それに対する答えは、「方法は明らかに科学的である。人民の声なのだから民主的でもある。が、はたして合法的だろうか」というものだった。蒋氏はその判断を人民代表大会にゆだね、大会の承認を得た。
 このプロジェクトの民意を諮る方法には、ふたつの潜在的な利点があった。第一に、政治の正統性が高められたようだった。蒋氏は、「権力を手放したはずが、さらに権力が増した」と語っている。・・・・第二の潜在的は利点は、四番目のプロジェクト案の検討に至る頃には、エリートの代表機関である人民代表大会と人民の意志形成の仕組みの連携がより効果的になっていったということだ。・・・・
 
 “1996年にテキサス州の複数の電力会社と共同で供給地域でどのように電力を提供するかという内容を討論型世論調査という形式で実施した”
「統合資源計画」の一環として、供給地域でどのように電力を提供するか、世間の意見を問わなければならないという新しい規制のためだった。石炭、天然ガス再生可能エネルギー(風力または太陽光発電)、または需要管理(節約政策によりさらなる電力の要求を抑える)の選択肢があった。世論調査を用いても、世間の人々はこの件に関して知識が乏しく、そもそもこれといった意見もなく、意見を参照するだけ無駄である、という問題を電力会社は抱えていた。さきほど取り上げたコンヴァースによる「非態度」の発見を特に知っていたわけではないが、大体のところはわかっていた。かといって、フォーカスグループや小規模のディスカッション・グループを用いれば、そのような小グループが社会を代表する声であると規制当局を納得させるのは無理である。誰でも出席自由のタウンミーティングを開けば、ロビイストや組織された利益集団に占領されてしまい、一般大衆の意見が聴かれることはない。
 そこで、電力会社は実行可能な解決策を討論型世論調査に求めた。私たちは条件付きで協力することに合意した。その条件とは、すべての主要な関係者を代表とする関係者からなる監修委員会が、説明資料、アンケート、スケジュールの作成を監督するというものだった。監修委員会には消費者団体、環境保護団体、代替エネルギーや従来のエネルギー源の主唱者、また大規模顧客の代表者が含まれた。その上、透明性のある公共的なイベントにしたかったので、週末の熟議のプロセスは供給地域にテレビ放映され、サンプル集団の質問に答えるように、公共事業委員会にもパネルに参加してもらった。
 テキサス州の各地と隣接するルイジアナ州でそのような討論型世論調査が八回実施された結果、市民は天然ガス再生可能エネルギー、節約の組み合わせという賢明な選択をした。八回のプロジェクトの平均で、再生エネルギーを支援するために毎月の電気代をより多く支払ってもよいという意見は52パーセントから84パーセントに増えた。資源節約のために費用をもっと負担してもいいという意見は43パーセントから73パーセントに増えた。その結果生まれた「統合資源計画」では再生エネルギーに相当額の投資が実施され、テキサス州風力発電の分野で全米第二位となり、2007年にはカリフォルニア州を抜いて第一位となった。しかし、大事なことは、彼らが最後に表明した意見は、社会を代表する小社会が熟慮した上でくだした判断であるということだ。つまり、バランスや透明性のためにいろいろな策が講じられて適切な条件が作り出され、その環境下で生まれた世論、ということである。
 討論型世論調査が取り組む世論の第三の問題は、公共の問題を論じる際に人は自分と同じような考え方の持ち主とばかり論じる。という点だ。対立する見地の考えを真剣に検討できるような状況は、普通の生活の中にはあまりない。・・・・・
 討論型世論調査が対処しようとする第四の問題は、世間が世論操作をうけやすい点である。生の世論は変わりやすく、少ない情報量にもとづいており、誤った情報や戦略的に不完全な情報、ブライミング効果に影響されやすいため、操作をうけやすい。・・・・
 (以上抜粋)

 討論型世論調査=DPというプログラムがよいのかどうかは わかりませんが 今の大衆の混乱が少しでも穏やかにならないかと思っています。その一つの方法になるのではないかと、私は討論型世論調査という方法に魅力を感じてしまったしだいです。


 思想放談という著書の中で、ホセ・オルテガ・イ・ガセット(スペインの哲学者)《著書:「大衆の反逆」など》を取り上げて話しておられるところがあります。
西部:この本にも書いてあるんですが、戦後日本人は「大衆の反逆」というと、善良なる大衆が悪しき権力に向かって正義の反逆を起こしているという思い込みがあるでしょう。この本はまったく逆なんですよ。大衆とは、この世を統治する能力も気力もない連中なんだ、ところが自分のそういう資質に反逆して、俺たちが民主主義の主権者だ、俺たちに投票させろ、俺たちが国家の進路を決めてみせるという、自分の限界に反逆して、社会の前面に躍りでようとしている人たちのことを指して「The Revolt of masses」という風に呼んだんです。
 それで私がなぜ『大衆への反逆』というエッセー集を出したかというと、彼が言う反逆はとうに大成功して、社会の政治も経済も文化も、いたるところで大衆の代理人たちが、権力を握っている。そこで大衆の代理人たちへの反逆を企てる文章を書かずんばなるまいと思ったのですね。
佐高:『大衆の反逆』を読んで、芥川がレーニンについて言った言葉を思い出しました。「誰よりも民衆を愛した君は、誰よりも民衆を軽蔑した君だ」というね。
西部:ああ、思い出した。
佐高:つまり、愛するのと軽蔑、というかやりきれなさ。愛する方はあんまりオルテガの本にはない。
西部:彼はこういう言い方をしていると思う。例えば農民や職人が黙々と田を耕しているとか、かんなで削っているという限りにおいては、その人たちに立派な庶民としての覚悟とか知恵もあっただろう。ところが、その人たちが下手に新聞を読んだりテレビを見たり、雑誌を読んだりして、何か出来合いの屁理屈を覚えて、そして街へ出てきて、あれはこうだ、これはああだと言い始めると、本当の意味での庶民の良さをかなぐり捨てて、一種のえせ知識人として世論の場に出てくることだ。そういう人間たちが大量に発生し始めたというイメージですね。だから大衆への愛情と憎悪の端境でという感じでもなくて、庶民が変じて大衆になってしまった。えせインテリになってしまったということについての反発ですね。
・・・
佐高:もちろんここでオルテガは言っているのはそういうことなんですが、疑うことをなかなかしにくいのが大衆であり、群衆であるという指摘もしているのかなと思います。それがある種の必然というか、時代の必然であって、そこに疑いをもつ人はその波に立ち向かわなければならない、ということなんでしょう。
西部:街を歩いていてどこかのテレビ局から意見を求められると、ほんのちょっとしたことについてさえ、私はこう思いますと、自分の意見を喜び勇んで開陳する。ついでまでに自己弁護すると、今僕が意見を開陳しているのはやむを得ない成り行きでやってるだけで・・(笑)。それはともかく、黙っている者に対するオルテガの愛情はしっかりとあるんですよ。


そうかと思えば、本屋の棚に
 このようなタイトルの本がありました。「騙されるあなたにも責任がある」
 この言葉は自分自身、俺が自分の心に投げかける言葉で 小出先生のような専門家に「騙されるあなたにも責任がある」なんて 問われたくないよ。 
 いよいよ 私はどうしたらよいのかわからなくなるなー と
私も専門職の端くれとして もしタイトルを載せるのであれば「騙されたあなたに こんな思いをさせてしまった専門家としての責任を語る」とかじゃないのかなー (長すぎてダメか)
 本を読まないで内容も知らずに勝手なことを言ってしまってゴメンなさい。
専門家がいることを願うだけです。

 中国という一党独裁のように日本で報道されている国が、地方行政政策に真摯に取り組んでおられる。 資本主義社会のアメリカの企業もまた真摯に取り組んでおられる。 日本という国は いったいなんなんでしょうか?
 今一度 考えてみます。