大門 (京都 島原 )

島原大門
『日本花街史』(明田鉄男)によると 最初の集団公認娼妓街二条柳町とある。
 豊臣秀吉の全盛期 1589年 当時 万里小(現柳馬場)二条辺りに住んでいた原三郎左衛門秀正という人物で、豊臣秀吉の許可を得たうえ、同志林又一郎(与兵衛)と協力して付近一帯を整地し、日本最初の集団公認娼妓街を形成した。
廓入り口に二本の柳があったので「柳町の廓」と称した。開廓から13年(1602年) 官憲の意向により六条の地へ強制移転させられるのである。六条の地とは、北は六条坊門通(現五条通)南は魚棚(六条)通、東は室町通、西は西洞院通に囲まれた広大な一画であった。もっとも、はじめ移ったときは室町ー新町間の東半分だけで、この中に北から上之町、中之町、下之町という三本の通りが東西に走っており、このため「六条三筋町」と呼ばれた。また「六条柳町」とも称したが、これは遊里を暗示させる「柳町」を二条から受けついだのであろう。 
ちなみに、関ヶ原の合戦が1600年である。時代は豊臣から徳川へである。
それから40年を経て 1641年突然の官命により 朱雀野の地にまた移転命令が出たのである。 この突然の移転騒動が、さながら 九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。現在のJR山陰線の東側、丹波口駅の南側から東へ広がる「西新屋敷」と称する一帯である。


























大門を進むと 左手に「誠の湯」という スーパー銭湯があったので 冷えた体を温めて帰ることにした。
 「誠の湯」 幕末 新撰組の屯所が近くにあったので 名の由来になったのか
 または 新撰組浪士も この遊里の里に通ったのかと 思いをめぐらせてみた。
 

大門の横に 柳の木が一本 何かを語らんかと 風に枝をゆらつかせている。
角屋公式サイト http://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/


また 林又一郎(与兵衛)は江戸の初期の寛文12年(1672)大阪の新町遊廓へ移り、新町扇屋の祖となる。このとき京都から伴って行ったのが名妓夕霧らである。
 
 詳しく お知りになりたい方は「日本花街史」をお読みになられてはいかがでしょう。 
 京都市図書館でも貸し出しされてます。